村名の由来
アイヌ語の「ル・スツ」(道が山のふもとにあるという意味)から名付けられたものです。村章の由来
六つの方向を持つ三条の光線は、ルスツのルの組み合わせによる太陽と雪のイメージを、周辺の三角形は、村を囲む山々の限りないエネルギーと北国の厳しさ、強さを、そして中心の円形は、平和と協同を表徴したものです。(昭和42年(1967年)9月2日制定)
村花・村木
(昭和62年(1987年)7月1日制定)村花 セタナリア (芝桜)
ルスツリゾートで見事な花を咲かせていたことから、村の花に選びました。
村木 シラカバ
高原の留寿都のイメージに合い、公園が出来た時に植えると美しいとの理由で村の木としました。
カバノキ科の落葉樹で、白色の幹が特徴です。
村木 アカダモ
アカダモは三ノ原にあった伝説の木で村のシンボル的な存在であるため、村の木としました。
ニレ科の落葉樹で、俗称はエルムといいます。
留寿都村の開基
留寿都村の開基は明治4年(1871年)、東本願寺が行った有珠郡へ至る新道開さくにともなって三戸移住したのがはじまりで、分村等を経て、大正14年(1925年)に現在の留寿都村が誕生しました。現在、人口2,034人(平成22年(2010年)国勢調査)、面積119.84平方キロメートルで、村の中心を札幌から洞爺湖温泉に向う国道230号が貫いています。村の北側には羊蹄山がそびえ、山麓を取り巻く北東の喜茂別町、北西の真狩村、南の胆振管内の洞爺湖町(旧:洞爺村)、伊達市(旧:大滝村)と境界を接しています。
留寿都村民憲章
わたしたちは、羊蹄のふもと、緑と白雪の高原留寿都の村民です。わたしたちは、きびしい風雪に耐えて郷土の礎をきずいた、たくましい先人の労苦と豊かな自然の恵みに感謝し、たがいのしあわせと限りない留寿都村の発展を願い、この憲章を定めます。- 心とからだをきたえ、明るくたくましい村民になります。
- 誇りをもって仕事にはげみ、楽しい家庭をつくります。
- きまりを守り、たがいに助け合って、住みよい村をつくります。
- 子どもの夢と若い力を育て、活力に満ちた村をつくります。
- 文化を高め産業をのばし、未来をひらく豊かな村をつくります。
留寿都村の歴史
ルソチ・留寿都
今を去る140年余前、留寿都村を通った和人、松浦武四郎。その足跡を「後方羊蹄日誌」(安政5年(1858年)2月2日の日誌)に「後を顧みれば湖中の島岐銀盤中の盆山の如く、是より真一文字に野とも山とも沢をも論せず行て」ホロヌツフ(曠野)ヌツケヘツ(アコタ領ヘンへの北の川源也)ユウトエンカ(原)ルソチ(雑樹 立)等過て、ソリヲイ(雄岳の麓)に到る。・・・・・」。(「多気志楼蝦夷日記集第二」日本古典全集刊行会)文中のルソチが今の留寿都の名のおこりといわれています。最初の人
本村に定住した最初の人びとの一人、阿部嘉左衛門は仙台藩の支藩の藩士として、明治3年(1870年)4月に伊達邦成らと共に移住し、明治4年に現在の喜茂別に駅逓取り扱いを営みました。記録上の本村定住の最初の人。大農場経営
明治20年(1887年)、留寿都村に橋口文蔵が入り、22歳のときにアメリカへ渡り農学を学んだ彼は米国式大農場経営を目指し、機械も全てサンフランシスコより輸入し模範農場を夢見ました。労働力不足や交通の不便さなどから事業を断念、明治24年(1891年)に橋口文蔵の夢と共に加藤泰秋が農場を譲り受けます。橋口文蔵、加藤泰秋は大農場経営の構想を実現することはできませんでしたが、留寿都農業に大きな足跡を残し、留寿都村に鍬を入れた最初の人でした。